聖徳太子と景教

2016/07/24

まずい、仕事の問題の解決をどうするか。難しい。

さて、だいぶ間が空きすぎてしまいました。聖徳太子こと厩戸皇子の話。

奈良、古代大和の時代というべきか。

前回、生まれについて触れてちょっとおさらいをしながら、進みたいのです。

日本書紀には、

母親の穴穂部間人皇后が禁中を巡査して回った時に、ちょうど馬司の場所で産気づいて太子を厩で出産され、皇子は幼少より言葉が話せ、すごい知恵を持った人と言われたされる。

イエスキリストは、母が馬小屋で出産し、幼少より色々な知恵を持った人だったはず。
違うのは、貧しい庶民か皇族かの違い。

さて、今日は、上宮太子の日常を追ってみたい。
現在の奈良県桜井市に家を構え、そこから都のある明日香村に通い、晩年は斑鳩(現在の法隆寺) から明日香村へ通ったとされている。

桜井市ならば、明日香村に隣接する地域なので、近いです。
問題は、斑鳩から通ったことについて、違和感があります。今のように道路が整備されていて、高速道路がある時代ではないので何時間かけて登庁したのかが疑問。
日本の馬で走れても、時速50kmがいいところだと思う。でも、馬が一気に駆け抜けられればなんとか2時間以内にはたどり着くかもしれない。

だって、有料道路を使って車で走っても1時間30ぐらいまではかかりますよ。日出とともに登庁し、お昼過ぎには帰宅する当時の生活スタイルから考えると、本当に彼は、斑鳩から通えたのか?疑問だ。

まともに仕事ができたとは思えない。むしろ、公務にはあまり携われていないのではないかと考えるのである。


日本書紀が編纂された時代は、天武天皇の時代から、平安期に入ってからであるから、律令国家形成のために、歴史書で、親仏教国である歴史を強調するために説話的に彼の存在をでっち上げたのではないだろうか?

また、上宮太子は、法華経、維摩経、勝鬘経を講義し三経義疏を編纂したとされるが、現存する三経義疏は上宮太子の在世以降に編纂されたもので、本当にこれらの経典を講義したが疑問である。

特に、法華経という経典は、南都六派の寺々が形成される奈良の時代、平城京が都となる時代、あるいは、
藤原京より後の時代、奈良の長谷寺が創建されたころには伝わってはいたが、この上宮太子が生きた時代に伝わっていたという証拠としては難しい。

それに、日本で法華経信仰が盛んになるのは、平安中期から末期にかけて、中国の天台山から法華思想を持ち帰った伝教大師・最澄からである。そして、鎌倉時代に日蓮によって庶民に広まっていく。

あと、景教について、上宮太子が誕生する前に仏教とともに日本に伝来してたとすると、朝鮮半島ではすでに、仏教、儒教、景教の3つの思想文化があったものと考えられるが、その時代の大陸側の歴史書に記述が見られるだろうか?

平城期から平安期にかけて、1つの学問書的に、伝わってきていたとすると、日本書紀は平安期にそれなりのストーリーの構想から記載されたもの考えてもよだろう。景教の伝来の変遷を考察する必要がある。

このあたりの変遷をもっと掘る必要がある。
聖徳太子が生きた時代に、どれだけの経典が伝わり、どんな仏教思想の広がりをしたのか?
また、交友関係、家系図からもその存在について、迫ることにしたい。

次回へ続く 

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